
「私の」
花音は表情を変えずに近づいてきて、俺の手からひょいとノートを奪った。
胸の下あたりまですとんと伸びている長く茶色い髪が揺れ、髪で隠されていた隙間から白く柔らかそうな二の腕が覗く。
教室にはクーラーが効いているからか、花音は授業中いつも薄手のパーカーなどを羽織っていた。
忘れ物に気付いて外から戻ってきたからだろう。
今はパーカーを脱いでノースリーブ。
今まで隠されていた二の腕をさらけだしている。
そしてそこに、タトゥーがあることを俺は初めて知る。
しかも、初めて見るタトゥー。
ハートでも、どくろマークでも、愛する人の名前でもメッセージでもない。
花音の腕に彫られていたのは、有名な絵本の王子さま。
しかし、普通と違う。
そのタトゥーの王子さまは顔の中身がなくのっぺらぼうだった。
「何だっけ、それ。星の王子さま?」
花音は髪を右肩にまとめ、左腕を全て見せてくれた。
「知ってる? サン=テグジュペリ」
「作者までは」
「読んだことは?」
「小さい頃に、あったかも。でも忘れた」
「そ」
花音は相変わらず表情を変えない。
「……どうして顔がないの?」
俺は当たり前の質問をした。
すると花音はペンケースから黒いマジックを取り出した。
何をするのだろう。
俺は花音から目が離せなかった。
「その日の気分に合わせて、顔を変えるから」
花音はそう言いながら、王子さまの顔ににっこりと笑った目鼻口を描き入れた。
さっきまで無表情だった王子さまが笑った。
「今日は笑顔なんだ?」
俺はささやかな質問をした。
さっきまで無表情だった花音が笑った。
「君が話しかけてくれたから」
二の腕の王子さまと同じような顔で、にっこりと。
ぽちょん。
恋に落ちる音が聞こえた。
