
彼女の腕にはのっぺらぼうの『星の王子さま』のタトゥーがあった。
「どうして顔がないの?」
ときくと、
「その日の気分に合わせて、毎日顔を変えるから」
と悪戯っ子のような微笑を浮かべた。
そしてペンケースから黒マジックを取りだし、にっこりと笑った目鼻口を描き入れた。
「今日は笑顔なんだ?」
とたずねると、
「君が話しかけてくれたから」
と王子さまと同じようににっこりと微笑んだ。
一発で、好きになった。
鈴原(すずはら)花音(かのん)はやばい。
そんな噂は入学してすぐに広まった。
花音は他人を寄せ付けない気高いシャム猫のようだった。
いつもツンとそっぽを向いて、背中や腰やお尻でしなやかな曲線を描いて椅子に座っ
ていた。
さらに机の上に頬杖をついては、なまめかしいため息をつくのだった。
そしてその姿はどうしようもなく男をそわそわさせてしまうのだ。言葉も発さず、目も合っていないのに、全然耳に入ってこない授業を聞いているよりも花音のそんな姿を眺めているほうがよっぽど創作意欲が湧いた。
花音自身がそんな自分の魅力に気付いているのかいないのか、狙ってやっているのか無意識なのかはわからない。
だけど花音の存在は、新しい学校に入学して何にでも興味津々な二十歳前後の学生たちの妄想をかきたて、好き勝手な噂を流させるのに十分なものだった。
クラスの女子に全く馴染もうとしなかったのもその原因と思われる。
馴染むどころか、高校を卒業したてで女子高生感が抜けない女子たちを、どこか小バカにするような目つきが余計反感をかっていた。
「鈴原さんてさ、調子乗ってるよね」
そんな個人的な観点から見た大雑把な批判から始まり、
「鈴原さんてさ、やばいバイトしてるらしいよ」
という具体的な内容になっていくまでに一ヶ月もかからなかった気がする。
とにかく、「鈴原花音はやばい」という話はあれよあれよという間に七階建ての校舎の階段を駆け下りて学校中に広がり、またその内容から暗黙の了解ということになってエレベーターの中の静けさと共に上まで上がってきた。
誰一人、本人に事実を確認したわけでもないのに、噂は事実ということになっていた。
数ヵ月後、俺はそれが紛れもない事実だということを痛いほど知るのだが。